武漢は湖北にあり、東漢時代の末期、魏、蜀、呉の3つの国に分かれ、互いに対立していました。武漢は当時の荊州にあり交通の要所であったため、魏、蜀、呉が奪いあっていました。そしてここは劉備と孫権がともに曹操と戦った「赤壁の戦い」の舞台でもあります。ゆえに武漢には三国時代に関する旧跡と伝説がたくさん残っています。
三国時代の黄武二年(223年)、呉の国の孫権は黄鵠山(今蛇山と呼ばれている)の川のそばに夏口城を築き、その内に展望楼をつくり黄鶴楼と名付けました。史上、最も早い時代に造られた黄鶴楼です。黄鶴楼は江南三大名楼の一つとして、「天下の絶景」といわれています。
劉備郊天壇
劉備郊天壇は武漢東湖の磨山景勝地東一峰にあり、三方を水に囲まれ、景色がことのほか美しいです。東には湖を隔て落雁景勝地があり、西は楚天台と隣接しています。劉備郊天壇は東漢の建安13年(西暦紀元208年)に建造され始め、およそ1800年の歴史があります。現在の郊天壇は元の場所で修築されたもので、当時、劉備が天を祀る雄大な場面を再現しています。郊天壇の高さは104.5メートル、広場、神道、祭壇の三つの部分からなっています。広場の中央には鉄製の香炉があり、高さは4.5メートルもあります。神道は360階(360は中国古代では縁起のいい数字とされている)の石階で構成され、祭壇の上部は円形、下部は方形をし、「天円地方」を表しています。
「郊天壇」の名の由来は、当時、劉備はまだ皇帝ではなく諸侯でした。そのため地を祀ることはできても天を祀ることはできず劉備はここの祭壇を郊天と呼び祀ることで法にもふれず、意をかなえることができました。ゆえにこの地には「天壇」と付けられています。
白馬洲
白馬洲は武漢東湖の白馬景勝地にあり、隠馬洲とも呼ばれています。言い伝えでは三国時代の東呉の名人である魯粛は白馬に乗り劉備の兵営へ、曹操と戦うことを相談しに行きました。そして東湖についた時、白馬は疲れ果てて死んでしまいました。魯粛はひどく心が痛み、白馬を東湖の岸にあるこの洲に埋葬しました。そのためここは白馬洲と呼ばれるようになりました。白馬洲には一つの墓があり、白馬墳と呼ばれています。
亀山
亀山は武漢市漢陽城の北に位置し、名所旧跡が多いことで知られている武漢市の三つの名山の一つです。関王廟、蔵馬洞、磨刀石、魯粛墓など三国時代に関連した遺跡が数多くあります。もっと見る