葭萌関は古い関所の名前で、葭萌県にあるのでその名を付けられており、今まで2300年の歴史を持っています。『三国演義』の「張飛と馬超との戦い」で世に知れ渡っています。
現在、葭萌関の古関城は無くなり、煉瓦作りの拱形城門だけが残っており、石積みの城壁の上に立っています。今の葭萌関は宋の開宝五年以来の「昭化」という名前をそのまま使い、四川省広元市元壩区昭化鎮に属しています。昭化古城は古代文化を伝承していく古城であり、とりわけ三国文化が残っていることで世に広く知られています。揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地とも言われ、東西南北の各関に通じ、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体が遺跡となっています。今まで中国国内で最も完璧に保存されたただ唯一の三国古城で、費褘墓、鮑三娘墓、牛頭山、姜維井などの三国遺跡が残っています。
重要な地理的位置
秦と蜀の交通要路であった葭萌関は、嘉陵江と白竜江の合流するところに位置して、陸路は上に漢中に、下に成都に繋がり、嘉陵江に沿って下れば巴蜀西部の重鎮であるロウ中に着くことができるので、とても重要な地理的位置を占めています。蜀漢歴史上でも、葭萌もずっと軍事的要衝でした。
昔、成都から長安(今の西安)に行くには、必ず昭化西門から入り、昭化東門から出る、逆に、長安から成都まで行くと、東門から入り西門から出ることになっていました。「葭萌関」は昭化古城の西門、即ち「臨清門」でした。臨清門は古城の西門であると同時に「葭萌関」の関所です。専門家の考証によると、「城」を「関」とした関所は、中国全土が僅か一箇所で、他の所は「城」と「関」が別々に設置されていたようです。
張飛と馬超の葭萌関戦い
魏呉蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ漢中の張魯(ちょうろ)の南下に対して援軍として出撃します。成都進出への足がかりを作りました。当時、曹操に破れ張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦います。張飛と馬超は決着がつかず馬超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せます。以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍のひとりとなります。