曹操(そうそう、155-220年)、字は孟徳(もうとく)、沛国譙県(現在の安徽省亳州)で生まれました。 漢王朝後期の傑出した政治家、軍事家、文学家、そして三国時代の魏政権の創設者で、後漢末の群雄の中では段違いのスケールを持つ存在です。
しかし、こんな文武両全の英雄でなぜ《三国志》に“悪役”としての評価が定着されましたか。また、近年人気物になる理由は何ですか。今回はその理由と曹操の生涯と功績を語ります。
西暦 | 主要事件・事績 |
---|---|
155年 | 誕生 |
184年 | 黄巾の乱の勃発により、武力を握る |
189年 | 董卓が実権掌握、都を去る。途上、呂伯奢一家殺害。 |
190年 | 反董卓連合挙兵 |
192年 | 青州兵を獲得 |
193年 | 徐州大虐殺を引き起こす |
196年 | 献帝を許に迎える。屯田制施行 |
198年 | 呂布を滅ぼす。 |
200年 | 官渡の戦いで最強の敵である袁紹を破る |
207年 | 袁氏一族を滅ぼし、河北を平定。 |
208年 | 赤壁の戦いで孫権・劉備に敗れる。 |
210年 | 銅雀台をつくる。 |
211年 | 関中を平定。 |
212年 | 荀彧死す。「濡須口の戦い」。 |
213年 | 213年に魏公となる |
215年 | 漢中を獲得 |
216年 | 216年に魏王に封じられ、魏を建国 |
219年 | 劉備に破れ、漢中を奪われる。 |
220年 | 死去 |
《三国志》は、曹操が“奸雄”としての評価が定着し、悪役として描かれていますが。実はこの“奸雄”の意味は非常に複雑です。“奸雄”とは何ですか?確か、曹操は危険で、疑わしく、複雑な人で虐殺も粛清も厭わぬ覇業から「乱世の奸雄」と評されました。その主な理由は2つあります。
まず、漢王朝の首相として彼は主家を奪った。呉の周瑜は、「曹操は漢の丞相(宰相)であることをたてにしているが、実際のところは漢にとっての賊である」と決めつけています。
次は、曹操の残忍さ。父を殺された恨みから193年秋、50万もの大軍で「陶謙」の領土である徐州に侵攻、十数城を奪い、数々の戦に勝利、数万人を殺害したのです。また、通過した地域でもたくさんの人々を殺害し、曹操軍の通過したところは鶏や犬の鳴き声も聞こえず、死体のため川の流れがせき止められたと言われています。これらの行動は、将来の世代から批判されました。
しかし、その一方で、曹操は群を抜いた存在でした。曹操は文学の面での功績を高く、才能のある人材を積極的に登用、軍閥を抑制し、中央集権を強化し、また、屯田制と呼ばれる農政を行い、水利プロジェクトを構築し、これにより、黄河流域はある程度の政治的明晰さを持ち、経済は徐々に回復し、階級の抑圧はわずかに軽減され、社会的雰囲気は改善されました。
近代の中国においては、多くの知識人によって曹操を悪玉とすることを見直し、再評価されたことで、曹操の人気が高まりました。例えば、中国では毛沢東が自らの政治的立場や主張に合わせて曹操は偉大な政治家、軍事戦略家、そして偉大な詩人と肯定的に評価したことがありますし、日本ではそれ以前に吉川英治が小説『三国志』の中で熱情をもって曹操を描き、『三国志演義』とは一味違う、単なる悪役ではない一個の血の通った人間として新たな曹操像を提示しました。
曹操は家柄や過去にこだわらず、才能のある人材を積極的に登用、軍閥を抑制し、中央集権を強化しました。支配地域の社会経済は回復し、発展してきました。
農政において、屯田制と呼ばれる農政を行い、水利プロジェクトを構築し、これにより、軍事的食糧不足の問題を解決し、農業生産の回復に一定の影響を及ぼしました。
曹操の統治下で、黄河流域はある程度の政治的明晰さを持ち、経済は徐々に回復し、階級の抑圧はわずかに軽減され、社会的雰囲気は改善されました。
曹操は孫子や呉起などの元軍事戦略家の作品を熟読、高度な軍事理論を持っていました。そのうえ、自らの豊富な実持っています。彼の「孫子の要約」は、名高い兵法書である「孫子」の13の章に注釈を付け、古代中国の軍事理論を大いに豊かにしました。
曹操は生涯をかけて戦い、国の統一に一刻も早く貢献しました。
曹操は文学を愛し、非常に高いレベルの文学の業績を上げています。曹操は文人たちと文学サロンを形成し、当時軽んじられていた民間の形式である五言詩(五字を一句とする詩の形式)を主とする「建安文学」を打ち立てました。
彼の詩で最も認識に値するのは、当時の出来事を説明し、彼の政治的の理想と野心を表現することです。歴史と風景のそれらの讃美歌でさえ、すべて彼の荘厳な理想と広い視野を反映しています。 「苦寒行」「短歌行」で有名です。
曹操の墓はすなわち安陽高陵で、河南省安陽市安豊卿西高穴村に位置し、昔曹操の王都である邺北城の西側12キロ離れたところにあります。
曹操の墓は本物かどうかまだ疑われていましたが、考古学の専門家は何回も認証して、墓の形、構造及び副葬品の時代の特徴から判断して、東漢晩期の墓であると確認出来ました。
曹操の「墓」の詳しい情報はこちらへ
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