勉県武侯祠は陕西省勉県から西に4キロの所に位置しています。川を隔てた反対側には定軍山武侯墓があります。武侯祠は蜀漢景耀六年(西暦紀元263年)すなわち諸葛亮の死後29年経って建てられました。
勉県武侯祠の由来
資料では諸葛亮の死後、蜀の人々は彼を偲んで、廟を建てることを望みました。しかし礼儀制度に合わないといった理由で朝廷の許しを得ることができませんでした。そのため庶民は道に祭っていました。263年の春に至るまで習隆、向充は周の人々が召伯を偲び、越王勾践が范蠡を偲ぶ物語で諸葛亮のために廟を建てることを劉禅に諫言したことによって、成都に廟が建てられました。しかし昭烈皇帝劉備の廟を侵すといった点から劉禅は定軍山の武侯坪ならば廟を建ててもよいと詔を下しました。
ここは中国全土でもの唯一の皇帝が詔を下し、資金をだして建てられた祠なので「天下第一武侯祠」と呼ばれています。
勉県武侯祠の建築
武侯祠の面積は3万㎡あり、現在では古い建物が28棟100室あまりあり、陕西省南部の規模では比較的大きく古い建物群です。唐、元、明、清の時代に度々、大規模な修繕を行い現在残っているものは主に清時代洋式の建築物です。祠の前の鳥居は高さが10mで、幅は6m、東西に3メートル広がっています。八つの角が立ち、頂が灰色の煉瓦に覆われ、一面には隷書で「漢丞相諸葛武郷忠武侯祠」と十一の大字、もう一面は「天下第一流」と五つの大字が書かれています。諸葛孔明の魏への執念を表し、門は北向きに建てられています。武侯祠は全国に何ヶ所かあるが、詩人の杜甫が詩で詠んだのはこの武侯祠です。
武侯祠の古い建物は北から南まで高楼宮殿がきちんと並んでいています。北から順に楽楼、東轅門、西轅門、牌楼、琴楼、鐘楼、鼓楼、戟門です。
勉県武侯祠の石碑
魏晋時代から、歴代の著名人もたくさんの墨跡を武侯祠に残しました。唐朝の李商隠、宋朝の陸遊、明代の薛宣、清代の王士祯、康熙皇帝の十七目の子果親王允礼、同治年間に日本へ派遣された大臣黎庶昌などもここに諷詠を記しました。正殿の両側、壁の下に歴代の文人墨客及び軍事政治の名人の詩と詞を刻む碑石が林立しています。現在まで残っている碑石が60あまり、横額が30余り、対聯が20余りあります。数多くの碑石の中でも最も珍しいものは唐貞観十一年(西暦紀元795年)沈迥刻が建てた「蜀漢丞相諸葛武侯新廟碑銘并序」です。
このほか祠の中には漢栢、漢桂、旱蓮、銀杏などの古い銘木が30本あまりあります。その中でも漢栢が18本あり、樹齢はいずれも1700年以上と測定されています。旱蓮は世界でも珍しい品種で、漢中市の市の花になっています。
観光ガイド
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住所:陕西省漢中市勉県武侯鎮
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開放時間:08:00~17:00
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観光所要時間:2時間
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交通アクセス:漢中バスターミナルから勉県までバスで1時間。勉県からは3番バスに乗車します。