趙雲(ちょううん ? - 229年)は中国、後漢末から三国時代の武将。字は子龍。常山郡真定県(現在の河北省正定県)の人。諡は順平侯。子は趙統・趙広がいる。
正史の注釈にある『趙雲別伝』(現在は散逸)によると、趙雲は身長八尺、姿や顔つきが際立って立派だった。故郷の常山郡から推挙され、袁紹と戦っている田楷の援軍として劉備を派遣した際に随行し、劉備の主騎(騎兵隊長)となった。
『趙雲別伝』によると、その後趙雲は兄の喪のために、故郷に帰ることとなり、劉備は趙雲が戻ってこないことを悟った、とある。(192年に常山郡が袁紹の手に移ったのが理由であろうか) 劉備が袁紹を頼ると(200年)、趙雲密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。
趙雲の生涯
建安13年(208年)、劉備が曹操の大軍に追われて逃走したとき、荊州の当陽県長坂で趙雲は劉備の息子劉禅を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を保護した。牙門将軍に昇進した。
同年、荊州平定に参加し、偏将軍、桂陽太守となった。
劉備の蜀入りの際には荊州に留まったが、建安18年(213年)、諸葛亮に率いられて張飛とともに長江をさかのぼって入蜀し、各郡県を平定した。趙雲は江州からは別の川を通って江陽に上った。蜀が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。
221年、孫権を討とうとする劉備を諫めるが聞き入れられず、趙雲は江州に留まった。
蜀の建興元年(223年)には中護軍・征南将軍に昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、さらに 鎮東将軍に昇進した。
同5年(227年)、諸葛亮とともに北伐に備えて漢中に駐留した。翌228年、諸葛亮は斜谷街道を通ると宣伝し、魏の曹真はこれを真に受けて大軍でおしよせた。趙雲は鄧芝とともにその相手をする囮となり、諸葛亮は祁山を攻めた。趙雲と鄧芝は箕谷で敗北したが、軍兵をとりまとめてよく守り、大敗には至らなかった。鎮軍将軍に降格された。
翌229年没し、長男の趙統があとを継いだ。261年、趙雲は順平侯の諡を追贈された。
『趙雲別伝』
『趙雲別伝』より姜維らの進言にいう。「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを 平と称します。趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」
『三国志演義』において趙雲は五虎大将軍の一人として、非常に勇猛、かつ義に篤い武将として描かれている。長坂では単騎で大軍の中を駆け抜け劉禅を救出し、漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠らを救出し見事な撤退戦と空城計を演じ、劉備から「子龍は一身すべて肝なり」と賞賛され、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになる。これらの活躍の多くは『趙雲別伝』を取り上げたものである。漢中攻めのエピソードは『資治通鑑』にも残っている。
中国などにおいても、劉備三兄弟と諸葛亮と同じくらい人気がある武将であり、三国志をあまり知らなくても名前が出てくるほどの武将である。
劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉に栄転した。しかし、劉備が呉に対して関羽の弔い合戦の準備をしているときに、恨みを持った部下(張達・范彊)に殺された。劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、内容を見る前に「ああ、(張)飛が死んだ」と言った。
260年、桓侯と諡された。
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