関羽(かんう 162年 - 219年)は中国三国時代の蜀漢の武将。字は雲長。長生から改めたという。司隷・河東郡解良(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。諡は壮穆侯。男性。
『三国志演義』に登場する武将の中でも諸葛亮と並んで人気があり、義を重んじたため、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君)とした。
商売の神として、世界中の中華街で祭られている。『三国志演義』の中でも特別扱いされており、関羽ではなく関公と記述されている。
その出身地から、塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備、張飛と出会い、義兄弟の契りを結んで、終生劉備に忠誠を尽くした。黄巾の乱の時からの劉備の部下。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたという。
劉備が曹操に反乱を起こして袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。ちょうど袁紹と曹操が戦っている最中であったが、曹操は、関羽の義に惚れ込んでおり、どうしても関羽を手元に残したいと思ったが、功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると思い、様々な贈り物をしたが関羽はこれらを封印して受け取らなかった。白馬の戦いで顔良を手ずから討ち取った功績を土産にして、5つの関所を突破し、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して彼を追っては成らないと言い聞かせた。
赤壁の戦いの後、劉備が益州を攻略すると、関羽は荊州の守備を任され、魏・呉に睨みを効かせていた。しかし関羽には部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があった(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)。
219年に樊城の曹仁を攻めたときに呉の婚姻の申し入れを断り、孫権を怒らせ、逆に魏と呉の軍に挟撃されてしまう事になる。さらに孫権は、関羽に不満を持っていた麋芳と傅士仁に誘いをかけ寝返らせた。退路を断たれた関羽と息子の関平は、呂蒙、陸遜により捕らえられ孫権により処刑された。
関羽を殺された劉備は怒りのあまり、呉に対し夷陵の戦いを起こし、大敗した。 武を誇る一方で、『春秋左氏伝』をそらんじたり、詩を吟じるなど文武両道の面を持っていた。
260年、蜀漢より壮穆侯の諡号を送られた。
他の三国志人物
ツアーをオーダーメイドする
|
柔軟性を最大限に活用
|
ご満足いただけることを保証
|
自分の中国物語を生きる
|
住所: 中国広西桂林七星区七星路創意産業園6棟4階