歴代9王朝が相次いで都を置いたことから、洛陽は「九王朝の古都」と呼ばれてきました。紀元前770年、洛陽はすでに東周王朝の都でした。その時、鎬京が西周の都で「今の中国陝西省西安市」、破損されて、犬戎「周代、中国の北西辺境に住んだ異民族」が中原へ移すため、周の平王は東へ洛邑(洛陽の旧称です)まで移して、ここを都に定めた。正式的に洛陽で都を置いたのは、東周王朝が最初です。
後漢を建国した光武帝は、西暦25年に再び洛陽を国都としました。洛陽は数百年間放置された後、再び政治や文化の中心地となりました。その時の洛陽は経済発展、文化繁栄でした。漢王朝の晩期、董卓は洛陽で建ち並ぶ宮殿を焼き払い、当代の繁栄した都は廃墟と化しました。西暦220年、曹丕は漢に代わり「魏」王朝を建国して、洛陽に都を置きました。その後、西晋と北魏は相次いで洛陽を都としました。
西暦604年、隋煬帝--楊広は父親殺し、洛陽へ遷都して、建国しました。洛陽の西より9kmのところに、南北を結ぶ大運河を完成させて、洛陽を全国の水陸交通の中心にさせたのです。西暦690年、唐代は女帝則天武后によって周と改名された同時に、洛陽を都としました。
その後、全部で6皇帝は洛陽へ遷都しました。この時代は洛陽歴史上の全盛期でした。宮殿は雄壮で美しくて、城内の大型の政府の倉庫は都の食糧を貯蓄あるいは中継輸送する重任を引き受けました。また、手工業の技術も目覚しい発展を遂げました。唐三彩はこの時期に生まれた彩色陶磁工芸品の代表です。
五代になると、後梁、後唐も洛陽を都としました。