黄埔軍官学校は中国の歴史上初めて創設された軍官学校(士官学校)であり、当時軍閥割拠の状態で混乱していた中国国内を、国民革命により統一する礎となった聖地です。
黄埔軍官学校の歴史
黄埔軍官学校跡は広州市黄埔区の長洲島にあり、清代に広東陸軍学堂と広東海軍学校が開設されたのが始まりです。孫文の顧問であった、コミンテルンのロシア人工作員ミハイル・ボロディンの進言により、1924年6月16日に設立されました。開校時の校名は「中国国民党陸軍軍官学校」でしたが、後に「中華民国陸軍軍官学校」に変わりました。以降も校名は幾度となく変わりましたが、実際に「黄埔軍校」の看板がかけられたことはありません。校名は変遷しても、変わらず黄埔区長洲島に存在し続けたため、いつしか「黄埔軍校」と呼ばれるようになりました。
「国民党」の名はありますが、当時は国民党と共産党が協力関係にあった「国共合作」時代であったため、国民党だけでなく、中国共産党の軍人も入校していました。以降、国共両党に多くの軍事戦略家や指揮官を輩出しました。黄埔軍官学校の卒業生たちの多くは30余年にわたる革命推進の要職に就き、中国の運命を変えました。中華人民共和国の建国に多大な貢献をなした軍事指導者、十大元帥の第3位、林彪元帥をはじめ、歴代将軍の1/3は黄埔軍官学校の卒業生が占めています。
黄埔軍官学校を長洲島に置いた三つの理由
広州市の長洲島はその名の通り、市内からは孤立し、船でしか往来できない「島」です。この不便な僻地に学校を作ったのには三つの理由があります
軍閥による破壊活動の防止:1920年代の中国は、全土がさまざまな軍閥によって支配されており、当時の広州は南方軍閥の雲南派(滇系)や広西派(桂系)の勢力地でした。当時、孫文がこの島に置いたのは、軍閥による破壊活動を防止するためだったのです。
静かな環境と険しい地形:この島は四方を水に囲まれていて静寂であり、川向かいの魚珠砲台、対岸の沙路砲台と長洲島の砲台が三叉状に配置された要塞のような形になっており、守りやすく攻めにくい地形は、戦術兵法を学び、訓練する場に相応しかったのです。
流用可能な校舎の存在:孫文は軍官学校の開設以前より長洲島を何度も訪れており、島を熟知していました。かつて存在していた学校の施設が残されていて、これを補修して校舎として再利用すれば、資金も時間も節約できることから、この地に開校することを選んだのです。
一般公開されている施設
現在修復され、一般に開放している施設は軍校の正門、学校本部、孫文記念碑と記念室、クラブ、プール、東征烈士の墓地、北伐記念碑、済深公園、教思亭の計10数か所に及びます。
学生寮、図書閲覧室、食堂等も見学でき、学生寮には四台のベッドが並んでおり、上には綺麗に畳まれた薄い布団が置かれ、両側の壁には合羽が掛かり、その下に古い食器が置いてあります。図書閲覧室には様々な本が並べてあります。
校長の応接室、教授の執務室と食堂の窓は全て開けてあります。執務室はとても簡素で、小さな部屋の中にはテーブルが一つ置いてあるだけで、応接室にも一切豪華な設備はありません。
食堂に至っては、さらに質素で、テーブルの上に一つの陶磁器の急須と数点の碗しかありません。当時の黄埔軍官学校には格差も封建的な圧力もなく、飲食住に誰も特別な待遇は受けない公平平等さと、解放的で透明性が高い民主的な運用がされていたことがしのばれます。
孫文の銅像は中国各地に数多く存在しますが、この島の小高い丘の上に立つひときわ大きな孫文像は、生前の孫文と親交の深かった日本人実業家の梅屋庄吉氏によって寄贈されたものです。(日本の彫刻家牧田祥哉氏による作品)
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交通アクセス:地下鉄4号線「魚珠駅」下車、D出口から出て10メートルほど進み、431番のバスに乗り、魚珠フェリー乗り場で下車、そこからフェリーで長洲島に渡ります。フェリーは45分毎に運航しています。
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TIPS:黄埔軍官学校跡の敷地はさほど広くはなく、2時間もあれば一巡できますので、観光客も多くありせん。なお入場は午後4:30に締め切られますのでご注意ください。