成都は2300年あまりの歴史があり、中国西南部で開発が一番早い地区です。
紀元前四世紀、蜀国開明王朝は成都に遷都しました。成都という名前の由来は「周太王は岐山まで移して、1年で村落が成り、3年で都が成りました」からです。成都は現在まで使用されています。紀元前316年、秦国は巴蜀を併呑しました。紀元前311年、秦は城壁を修築しました。紀元前106年、漢武帝は成都に巴、蜀、广漢、[牛建]為四部を管理する益州刺史部を設置しました。
秦時代の末、漢時代の初、成都は「天府」(天然資源の豊富な地域という意味です)と称されました。秦、漢時代には、成都の経済、文化が発達しました。秦時代の成都は全国でも大都市でした。漢時代、成都の紡織は発達して、「錦官城」(錦織の職人を集めて、錦織業を管理する)を設置しました。成都の別称――「錦城」はこれからきています。そのほか、漢時代、成都の文化芸術も高いレベルに達していて、司馬相如、揚雄、王褒は当時の有名な文学者でした。
隋唐時代、成都の経済が発達し、文化も繁栄、仏教が盛んになりました。経済では「揚一益二」(揚州が一、成都が第二位)という言い方があります。成都は中国雕版印刷術の発祥地でした。唐代後期、大部分の印刷品は成都産でした。また、文学のほうでは、李白、杜甫、王勃、盧照隣、高適などの文学者は、成都に居留したことがあります。唐貞観年間、建元寺を建造され、大中年間に「昭覚寺」に改名し、「川西第一僧林」と呼ばれています。
宋元時代、成都の東、西、南、北は専門的なカイコ、薬、花の市場がありました。成都では商業発展のため、世界で一番早い紙幣――交子を発行するようになりました。北宋時代仁宗の時、益州(成都)で国営の交子業務を取り扱う機関が設置されました。
宋元以降、成都は四川、西南地区の政治、経済、軍事、文化の中心になりました。明時代、朝廷は四川で布政使司(行政単位です)を設置しました。紀元1654年、清時代順治帝は四川布政使司を四川省に変えました。「四川省」という省名が初めて使われました。
1928年、国民政府は成都市を成立して、成都を四川省の省会(省政府所在地)としました。1949年成都が解放されて、川西行署(省政府と県政府の間に設けられた地方行政機構)所在地となりました。1952年四川省は復活、成都も省会に復帰しました。