嘉峪関長城
甘粛省嘉峪関市の西へ5キロのところにある嘉峪関は明代の万里の長城の西の起点であり、古代「シルクロード」の交通の要所でもありました。
嘉峪関は万里の長城の最もよく保存されていて規模も最も立派な古代の軍の城で「雄関」もいわれています。
嘉峪関城の歴史
関城は明代洪武五年(公元1372年)に建て始められ、168年をかけて公元1540年に完成しました。山海関より九年間早く出来上がりました。明の時代 の初めごろ、宋国公で「征虜大将軍」の馮勝が凱旋の途中、嘉峪塬の西麓に砦を建てることを決めました。ここは河西回廊の途中で東には酒泉、西には玉門、後 ろには黒山、そして南には祁連があります。史料『秦边紀略』の記載「初有水而後置関,有関而後建楼,有楼而後築長城,長城築而後可守也」のとおり、嘉峪関 城のレイアウトも建物も合理的です。
嘉峪関および周りのスポット
嘉峪関関城
嘉峪関関城は内城、外城、羅城、甕城、城の堀、南北两側の長城からなっています。嘉峪関の長城には西長城と東長城、北長城三部があり全長は約60キロです。長城の内外には城台、烽火台、砦が数多く、広く分布していており嘉峪関の完璧な軍事防御体系を形作っています。
長城第一墩
昔は「討頼河墩」と呼ばれていました。1539年に粛州兵備道李涵のもとで建てられ、明代の万里の長城の中では西から東に向かう最初の烽火台で、長城の最 西端です。烽火台の北は関城まで7.5キロあり、討頼河畔56メートルの懸崖に建っているので「険墩」と呼ばれています。烽火台を中心としたこの観光エリ アは東に酒泉、西に砂漠、北には嘉峪、南には祁連に面しています。現在残される長城第一墩は高さが10mで、広さ約14mです。
懸壁長城
黒山岩画
明 代嘉靖十八年(1539年)に粛州兵備道李涵のもとで建てられました。懸壁長城は関城東水門のあたりの高台から北に向かって黒山の中腹まで続いています。 長城が山の中腹にぶら下がって、約750メートルあり切り立っていて、険しいので「懸壁長城(山に掛かる長城)」「西部八達嶺」とも呼ばれます。
黒山岩画
黒山岩画は古代の少数民族の生活を描いたもので1972年に発見されました。戦国から明の時代までの岩画が5箇所あり、合計153もの絵が約2キロにわた り延々と続いています。岩壁は黒紫色で彫刻の跡が浅く、昔の方法で描かれていますが造型が生き生きとしています。絵の面積はそれぞれ異なり、幅 0.3m~3m、高さが0.2m~2.5mのものまであり地面から0.5m~5mのところに刻まれています。絵の内容は豊富で狩りや騎馬射撃、舞踏、古い 文字や、また数多くの羊、牛、鹿など動物が描かれています。