一般に南寺と呼ばれており、大同市市街の南部にあります。唐代に創建され当時は開元寺と名づけられましたが、五代の後の晋代に大晋恩寺と改称されました。1122年に兵火に遭い、ほとんどが破壊されましたが金代初期、住職の円満大師によって再建されました。明代に再び修理がなされ、1445年に現在の名称となりました。寺院は南に面し、敷地は1万4000平方メートルと広大で、山門や三聖殿、大雄宝殿などが保存されています。中でも大雄宝殿は雄大です。建築様式は遼(契丹族)や金(女真族)の意匠を色濃く映しています。
寺院の建築は高いものと低いものが交錯し、主要なものと副次的なものがはっきりしており左右対称で、中国で最も大規模で最も無傷で保存されている遼、金代寺院です。寺内にはまた塑像、壁画、碑記など珍しい文物が保存され、なかでも金代の塑像は造型が美しく個性が現れています。特に二十四天王像は老若男女さまざまなものがあり中には帝王の服装を着用したものや臣子像、腕と足に絹をまとい天竺から来たような姿のもの、鎧をつけたもの、北国の防寒のように毛皮を着ているものがあります。生活の雰囲気を色濃く映し、国の宝ともいえます。
大雄宝殿
大雄宝殿は善化寺の最も大きな宮殿で、前には張り出した台が、左右には鐘楼と鼓楼があります。大殿の間口は七間、奥行きは五間で、殿内の真ん中には仏像があり、阿修羅如来、南方宝生如来、大日如来、西方阿弥陀如来、北方微妙聞如来があります。殿内东西の両側には二十四諸天塑像が置かれ、その様相は様々で性格が鮮明に表れています。殿内西、南の両壁の上には、清朝康熙二十五年から四十七年にかけての壁画が保存され、仏教の物語が描かれています。
三聖殿
三聖殿は善化寺の中殿で、金代天会から皇統年間に建てらたものです。正面には「華厳三聖」が置かれ、真ん中は釈迦、西側は为普賢菩薩、東側は文殊菩薩です。そのため三聖殿と呼ばれています。
普賢閣
普賢閣は間口が三間、奥行きが三間の正方形二階建ての楼閣で、院内に高く聳えており金代貞元二年に建てられたものです。楼閣は西方にあり、東に面しています。中には木造の梯がかかっているので上に登って遠く見渡すことができます。